世界の先進国、特に日本においてその進行が著しい少子・高齢化に加え、コロナ禍もあいまって、ヘルスケア・ライフサイエンス事業に注目が集まっています。そこで、今回から数回にわたり「ヘルスケア・ライフサイエンス分野におけるM&A」におけるさまざまな論点について解説したいと思います。
まず今回は、ヘルスケア・ライフサイエンス分野の中でも、特に医薬品の分野を中心とするM&Aの概況およびあり方を、実例を挙げながら、解説いたします。
ヘルスケア・ライフサイエンス分野におけるM&Aの活況
ヘルスケア・ライフサイエンス分野は、著しい少子・高齢化が進む日本における数少ない成長産業の一つです。
たとえば、医薬品市場に目を向けると、IQVIA社が毎年公表している「IQVIA医薬品市場統計-売上データ」によれば、2020年の日本における医薬品市場の売上は約10.4兆円であり注1、ここ数年は横ばいであるものの、2007年の約8.04兆円から安定的な成長を続けているといってよいでしょう注2。また、厚生労働省が公表している「薬事工業生産動態統計年報」の令和元年版によれば、最新の年報が公表されている2019年の日本における医薬品の生産金額は約9.5兆円であり注3、国内での医薬品の製造規模は大きいといえます。また、ヘルスケア・ライフサイエンスの分野は、技術に強い伝統的な製造業がその技術を生かして進出できる潜在的可能性を有している分野です。国内外の企業間ならびに大学および企業との間の共同研究に関する報道も数多くなされており注4、今後も成長が続いていくことが予測されます。
業界の活況を反映し、M&Aも盛んに行われています。グローバルなデータ企業であるAcuris社が提供するデータベース注5によれば、日本国内の企業を対象とする医療・看護・製薬分野注6の公表されたM&Aは2021年(10月16日時点)だけで28件あり、全世界においては400件超にのぼっています。
ヘルスケア・ライフサイエンス分野におけるM&Aの類型① 製薬分野を中心に
同業による水平的買収―経営の多角化・海外展開・生産能力の増強
医薬品関連では、同業同士の買収事例が多く見られます。同業同士の買収の目的としては、1製品あたりの研究・開発費用の増大に伴う負担増に対応するために規模のメリットを追求すること、また、海外の現地法人を買収することで、ブランドの多角化や海外市場への展開を狙うことなどが挙げられます。
たとえば、武田薬品工業は、一般用医薬品事業を担う武田コンシューマーヘルスケアを米国のプライベート・エクイティ・ファンドであるブラックストーンに売却する一方注7、2018~2019年に行われたアイルランドの製薬大手シャイアー社の買収をはじめ注8、過去に複数の海外製薬企業の買収を行っており、グローバルな展開とポートフォリオの最適化を進めています。同社のプレスリリース注9では、シャイアー社の買収の目的として、相互補完的なパイプラインの取得による事業成長や、コストシナジーの実現などが挙げられています。また、若干古い事例となりますが、中外製薬は、2002年にスイスに本拠を置くロシュ社との資本・業務提携を行い、日本におけるロシュ社製品の優先販売権と、自社製品を海外展開するための販売網を獲得しました注10。
旭化成は、2019年に、米国の製薬企業であるVeloxis Pharmaceuticals社を買収しています。旭化成のプレスリリース注11では、買収の狙いとして、「新たな成長ドライバーとなる医薬品の獲得機会増加」「高いアンメットニーズを満たす新薬の創出」「米国のイノベーション・臨床現場へのアクセスを活用したヘルスケア関連新事業の創出」が挙げられており、取扱製品の拡大と、既存プレイヤーの技術・知識・経験を生かしたグローバルな事業展開が目的とされていたといえます。
また、伸長する需要に応えるための供給能力の増強を目的として、会社そのものを買収するのではなく、一部の製薬工場を買収する事例も数多く見られます。たとえば、調剤薬局事業等を展開する日本製剤は、2014年に後発医薬品メーカー大手であるテバ製薬(当時)の医薬品工場を子会社を通じて買収し、自社製品および受託製造医薬品の生産能力の拡大に役立てています注12(なお、同工場は、2018年にニプロファーマに売却されています注13)。AGCは、自社が受託製造する医薬品原薬の製造拠点として、米国AstraZeneca社が有するコロラド州のバイオ医薬品原薬製造工場を買収しています注14。
スタートアップ企業の買収―新たなパイプライン・成長機会の取得
特に医薬品の分野においては、研究開発に多大な時間、人員および費用を必要とする一方で、上市に至るまでの確率が低いという特有の事情があります。一方で、大学・研究者発のベンチャーなど、特定の分野に特化した優れた技術や知的財産権を有しながら、資金不足や販売網の獲得を課題とする中小規模の新興企業も存在します。このニーズがマッチし、大手製薬企業によるスタートアップ企業への投資・買収が行われるというのも、典型的なM&Aの場面の一つです。製薬会社にとっては、知的財産権の問題を回避し、上市までの投資に要する時間とコストを圧縮しつつ、新薬候補を取得することができますし、ベンチャー企業も、自己の製品を商業的に世に出す大きなチャンスを手にすることになります。
たとえば、アステラス製薬は、これまでにバイオベンチャーである米国Agensys社(がん治療の抗体医薬)、米国Mitobridge社(ミトコンドリア関連疾患)、米国Universal Cells社(細胞医療製品)および英国Quethera社(眼科領域の遺伝子治療)を買収してグループ会社化し、これらの会社が行っていた研究開発活動を引き続き推進しています注15。また、グループ会社化したスタートアップ企業を通じて、さらに第三者との共同研究を行っている例も公表されており注16、単に買収した企業の技術を引き継ぐだけでなく、そういった技術を利用した新たな事業展開が狙えることも、スタートアップ企業を買収するメリットの一つといえるでしょう。
なお、スタートアップ企業は買収されるだけでなく、自ら上場を達成する例も存在します。たとえば、東京大学発のスタートアップであったペプチドリームは、2013年に東京証券取引所マザーズ市場に上場し、名だたる製薬会社と共同研究、ライセンスを行うことによって、その事業を拡大しています注17。さらに同社は、2021年9月に、富士フイルムから放射性医薬品事業を取得することも発表しています注18。
他業による事業分野拡大のための買収
これまでは、既に医薬品市場のプレイヤーである企業が、他の企業またはその一部の事業を買収する事例を紹介してきましたが、ヘルスケア・ライフサイエンス分野の成長性に着目している企業は多く、他業種を営む事業会社にとっては、市場への新規参入の手段として、“時間を買う”という意味とともに、特に生命・身体への影響がありうる医薬品分野において、技術・ノウハウを保有している市場の既存プレイヤーを買収することがその有力な手段として考えられています。
たとえば、X線技術など医療機器分野で実績を有していた富士フイルムは、2008年に国内医薬品・化学品メーカーである富山化学工業を買収して医薬品分野に本格参入し、さらには2011年には海外のバイオ医薬品の受託製造会社であるMSD Biologics(UK)Limited社およびDiosynth RTP Inc.社を買収し、バイオ医薬品分野にも本格参入しました。同社は、その後も国内外において複数の買収を行って医薬品分野の事業を拡大し注19、2021年6月には欧米の拠点に約900億円を投資し、バイオ医薬品生産能力の大幅な向上を目指すことも発表しています注20。同社の2008年当時のプレスリリース注21では、総合ヘルスケアカンパニーとして「予防~診断~治療」の全領域をカバーしていくことを目指す中で、既に事業を展開している「予防」「診断」の分野に加え、富山化学工業を「治療」分野における中核企業と位置づけ、さらなる事業展開を目指していく、ということが説明されています。
なお、製薬分野への新規参入の方法は、M&Aだけではありません。医薬品の製造は多くの過程を経て行われますが、その過程に利用・転用できる技術を既存の事業ポートフォリオにおいて有しているような会社は、その技術の応用によって製薬分野に参入することも考えられるところです。さらに、ライフ・イノベーションが国際的にも急速に進み、製薬の過程すべてを一社でカバーすることが必ずしも効率的・合理的とはいえなくなってきており、また必要とされる多様な先端的知見を複数当事者により結集するという意味においても、近時よく耳にするようになった、「垂直的統合から水平的分業へ」という流れはこれからも進んでいくでしょう。たとえば、ダイドーグループホールディングスは、2019年に子会社としてダイドーファーマを設立し、医薬品分野に参入しました。ダイドーファーマは、自社で開発、製造および販売をすべて担うのではなく、開発のうち臨床開発については開発業務受託機関(CRO)を、製造に関しては製造受託機関(CMO)を活用するとともに、販売についても製薬企業との協力体制や外部委託等も検討する、としています注22。
水平分業者による買収
上記のように水平的な分業が進んでくると、いわゆる製薬会社だけでなく、(開発・)製造受託機関(CMO、CDMO)等による買収も行われるようになります。
たとえば、塩野義製薬が100%出資して受託開発製造専業の企業とスタートした武州製薬注23は、2017年には武田薬品工業から製剤研究部門を譲り受けています注24。また、アステラス製薬は、2018年に、その子会社アステラス ファーマ テックの岩手県所在の工場の事業を分社化し、製造受託機関であるシミックCMOに譲渡しています注25。CMO・CDMOの側から見れば、既に開発・製造の実績を有する企業の開発・製造事業を買収することで、コストを抑えて事業を拡大するというメリットを享受できることは容易に想像できますが、製薬会社の側にとっても、単なる事業整理や事業価値の現金化というだけではなく、M&Aを契機に譲受先となったCMO・CDMOとの提携体制を構築することで、自社で開発・製造部門を賄うよりもより効率的に医薬品の開発・製造を行うことができるというメリットもあるといえるでしょう。
投資ファンドによる買収
近時、投資ファンドによる買収は盛んに行われていますが、日本における成長産業と目されている医薬品業界もその例外ではありません。
たとえば、前述の武州製薬は、2010年に東京海上キャピタル系列の投資ファンドがその全株式を取得しており注26、さらに、2014年には、香港で設立されたプライベート・エクイティ・ファンドであるベアリングの投資ファンドに全株式が譲渡されています注27。また、2015年に発足したリウマチ・整形外科分野における製薬会社であるあゆみ製薬は、米国投資ファンドのブラックストーンの傘下に入っています注28。1.で述べた武田薬品工業による一般用医薬品事業の売却も、その相手方はブラックストーンです。
ファンドの究極の目的は、一定の期間の中で企業価値を向上させ、上場やM&A等により投資の回収と利益の獲得を図ることですが、企業価値の向上のためには、買収した企業の経営を改善し、更なる成長を実現しなければなりません。買収された企業の側にも、ファンドから派遣される経営の専門家の参画による経営改善、ファンドのグローバルな人脈を生かした優秀な人材の確保、ファンドのチャネルを利用した新規取引先の開拓などのメリットが認められるといえるでしょう。
製薬分野におけるM&Aの概観
以上のとおり、製薬業界の既存プレイヤーが他の同業者を買収する流れも推し進められている一方、他の業種を営む事業会社が事業ポートフォリオの入れ替えを考える中で新規の進出対象としてまず考えられるのがヘルスケア・ライフサイエンス分野であるといっても過言ではない状況であるといえます。他の業種からの参入において、身体・生命に直接的な影響がありうる製薬事業はそれまで行っている事業とは性質の異なったリスクのマネジメントが必要となってくるものではありますが、既存プレイヤーの買収によって事業とともにそのリスク・マネジメントのノウハウや人材を獲得することができますし、また水平的分業の活用によってリスクの分散も図ることができることから、成長著しい分野へいち早く参入し事業を推進していくうえでM&Aはますます不可欠な手段となってくるものと思われます。
→この連載を「まとめて読む」
- IQVIAジャパン グループ「IQVIA医薬品市場統計-売上データ 期間:2020年1月~12月」。[↩]
- IQVIAジャパン グループ「IQVIATM医薬品市場統計-売上データ 期間:平成年間 1989~2018暦年」。[↩]
- 厚生労働省医政局「令和元年-2019-薬事工業生産動態統計年報の概要」。[↩]
- たとえば、最近のものでは、「武田と京大など、iPS細胞実用化で新会社 開発を迅速化」(日本経済新聞、2021年8月10日)。[↩]
- Mergermarket社データベース。[↩]
- 分野を「Medical」および「Biotechnology」として検索。[↩]
- 武田薬品工業株式会社「武田コンシューマーヘルスケア株式会社株式のBlackstoneへの譲渡について」(2020年8月24日)。[↩]
- 武田薬品工業株式会社「当社によるShire社買収の申出に関する当社株主総会での承認決議について」(2018年12月5日)。[↩]
- 武田薬品工業株式会社「武田薬品によるシャイアー社買収の申出について」(2018年5月8日)。[↩]
- 中外製薬株式会社ウェブサイト「ロシュ社との戦略的提携」。[↩]
- 旭化成株式会社「米国Veloxis Pharmaceuticals Inc.の買収について~グローバル・ヘルスケア・カンパニーへの進化を加速~」(2019年11月25日)。[↩]
- 「日本調剤、テバ製薬の医薬品工場買収 埼玉・春日部」(日本経済新聞、2014年4月18日)。[↩]
- 日本調剤株式会社「連結子会社による工場の売却に関するお知らせ」(2018年8月28日)。[↩]
- AGC株式会社「米国バイオ医薬品原薬製造工場を買収」(2020年6月2日)。[↩]
- アステラス製薬株式会社ウェブサイト「会社沿革」。[↩]
- アステラス製薬株式会社「アステラス製薬とAdaptimmune社 多能性幹細胞由来の他家CAR-TとTCR-T細胞医療製品の共同開発・商業化に関する提携」(2020年1月14日)。[↩]
- ペプチドリーム株式会社ウェブサイト「沿革」。[↩]
- ペプチドリーム株式会社「ペプチドリーム、富士フイルムから富士フイルム富山化学の放射性医薬品事業を取得することで合意」(2021年9月2日)。[↩]
- 富士フイルム株式会社ウェブサイト「富士フイルムグループの歴史」。[↩]
- 富士フイルム株式会社「欧米拠点に約900億円の大型設備投資を決定」(2021年6月29日)。[↩]
- 富士フイルムホールディングス株式会社、大正製薬株式会社、富山化学工業株式会社「富士フイルム、大正製薬、および富山化学による戦略的資本・業務提携の基本合意について」(2008年2月13日)。[↩]
- ダイドーファーマ株式会社ウェブサイト「事業紹介」。[↩]
- 武州製薬株式会社ウェブサイト「沿革」。[↩]
- 「武田、製剤研究を一部移管 製造受託大手の武州製薬に」(日本経済新聞、2017年2月28日)。[↩]
- アステラス製薬株式会社「国内生産子会社アステラス ファーマ テックとシミックCMO 西根工場の事業承継に関する株式譲渡契約締結」(2018年12月21日)。[↩]
- 塩野義製薬株式会社「子会社の異動に関するお知らせ」(2010年2月22日)。[↩]
- 東京海上キャピタル株式会社「武州製薬株式会社の株式譲渡について」(2014年11月17日)。[↩]
- あゆみ製薬株式会社ウェブサイト「企業概要」。[↩]
龍野 滋幹
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業 パートナー弁護士・ニューヨーク州弁護士
2000年東京大学法学部卒業。2002年弁護士登録、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。2007年米国ニューヨーク大学ロースクール卒業(LL.M.)。2008年ニューヨーク州弁護士登録。2007~2008年フランス・パリのHerbert Smith法律事務所にて執務。2014年~東京大学大学院薬学系研究科・薬学部「ヒトを対象とする研究倫理審査委員会」審査委員。国内外のM&A、JV、投資案件やファンド組成・投資、AI・データ等の関連取引・規制アドバイスその他の企業法務全般を取り扱っている。週刊東洋経済2020年11月7日号「「依頼したい弁護士」分野別25人」の「M&A・会社法分野で特に活躍が目立つ2人」のうち1人として選定。
村上 遼
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業 アソシエイト弁護士
2011年東京大学法学部卒業、2013年東京大学法科大学院卒業。2014年弁護士登録、アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。2019年米国ハーバード・ロースクール卒業(LL.M.)。2019~2020年米国ニューヨークのCravath, Swaine & Mooreにて執務。知的財産取引、知的財産紛争、M&A、ソフトウェア・データ関連取引その他の企業法務を取り扱う。