2011年に国連で「「ビジネスと人権」に関する指導原則」が採択され、日本でも2020年に「ビジネスと人権に関する行動計画」が策定されたことを背景に、いまや企業にとって人権の尊重は社会的責任の一部であるだけでなく、事業継続を左右する経営課題となったといえる。
日本で初めて人権報告書を発行するなどこの分野の取り組みをリードしてきたANAホールディングスの執行役員・サステナビリティ推進部長 宮田千夏子氏と、人権関連法務を含むESG/サステナビリティ関連の課題解決支援に強みを持つPwC弁護士法人代表の北村導人氏が、企業の人権課題への取り組みにおける課題と今後の展望を探った。
外発的なきっかけから経営戦略そのものに
北村弁護士 2011年に「「ビジネスと人権」に関する指導原則」(以下、「指導原則」という)が国連で策定されたことを機に、人権尊重に対する企業の向き合い方が変化しました。
それまで人権問題といえば、多くは薬害・公害・騒音など、国家と個人との間係に社会の関心が向けられていましたが、近年は企業にも人権の尊重に力を注ぐことが強く求められ、企業の持続可能性を左右するほどのテーマになっています。
日本でも、「ビジネスと人権に関する行動計画」が2020年に策定され、2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにも「人権課題は重要な経営課題であり、積極的に対応すべき」旨が明記されました。また、海外での人権事案によって日本企業に対する輸出入規制や不買運動につながりかねない状況が生じたことで、日本企業において人権尊重に対する責任が本格的に議論されるようになりました。
このような状況のもと、2021年11月に経産省と外務省が公表した「日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査」の結果によると、日本企業の多くは人権尊重への取り組みの必要性自体は感じているものの、人権を尊重する経営を実践するうえでの課題として、「具体的な取り組み方法が分からない」「十分な人員・予算を確保できない」ことなどを挙げています。
人権尊重に取り組むリーディングカンパニーであるANAホールディングスの事例は、これらの企業にとって大いに参考になると考えます。まずは取り組みのきっかけからご紹介ください。
宮田氏 人権課題そのものは以前から広汎に存在していたテーマです。特に海外で事業展開している一部メーカーなどは、NGOやNPOなどからしばしば厳しい指摘を受けてきました。
他方、当社の場合は海外に工場などを持っているわけではなく、現地雇用も多くはないため、具体的な人権課題に直面することはほとんどありませんでした。しかし、国連により「指導原則」が示されたことに伴い、日本国内でそれまで広く共有されてきた人権の意味合いとは異なる視点で捉え直された新たな「人権」が、今後は重要になると気づいたのです。
北村弁護士 企業が人権課題への取り組みを始めるきっかけはさまざまですが、たとえば、「NGOやNPOなどから具体的な人権問題の指摘を受けた」「海外の取引先から人権尊重への取り組み姿勢について報告を求められた」「投資家や金融機関などからの資金調達の際のESG評価の格付けが必要となった」といった、外発的な事由をきっかけとする企業も少なからずあります。
貴社の場合は、このような「人権」問題に対する具体的な対応を迫られるような事態の発生をきっかけとするのではなく、国連の「指導原則」の公表などを機に、企業活動と人権尊重のあり方を直視し、自ら人権課題に真摯に向き合い、人権尊重の責任を果たすことの重要性を認識されたわけですね。
宮田氏 とはいえ、その後の取り組みを加速させるにあたっては、二つの要因がありました。一つは、2015年に英国で現代奴隷法が制定され、ロンドンの事業所で対応が必要になったこと。もう一つは、東京2020オリンピック・パラリンピックのスポンサー企業になったことです。スポンサー企業は世界からの厳しい目にさらされるので、従来よりもさらに踏み込んだ対応が求められると考えたのです。
北村弁護士 人権尊重への取り組みは、課題の範囲や施策について明確な正解があるものではないため、進めながら徐々に高度化を図っていくことが重要ですが、ANAでは、ハードロー対応や企業の置かれた環境等の外発的な事由も、人権尊重への取り組みを加速・高度化させる要因の一つであったということですね。
こうした取り組みは従来は経営とのつながりが遠いものと認識されていたかと思いますが、直近のANAグループの「統合報告書2021」では、ESG経営の推進の一環として、人権尊重の徹底と責任ある調達の実現が経営戦略の重要課題に挙げられています。人権尊重への取り組みは、今やグループの経営戦略に直結するものとして重要性を増しているのではないでしょうか。
宮田氏 おっしゃるとおりです。私はANAに最初にCSR推進室ができたときに配属されたのですが、当初は社会に対する取り組みというのは「本業とは別にやったほうがよいこと」という位置づけでした。
今ではCSRは「サステナビリティ」として捉えられるようになり、先程おっしゃった「ESG」という観点が重視されるようになると、人権を含む「S(社会)」の領域でリスクを把握して対応し、さらにそれを機会としていくことは、まさに経営戦略そのものになっているといえます。
経営トップの意識を変えた「何もしないことのリスク」
北村弁護士 人権尊重への取り組みは重要な経営課題であるにもかかわらず、企業内部や株主、取引先等からその意義などについて理解を得ることに時間を要する領域でもあります。そのため、経営トップ自らが、人権尊重への取り組みがなぜサステナブルな経営に欠かせないのかを発信することが非常に大切なのではないでしょうか。
宮田氏 はい。当社の取り組みを本格的に動かし加速させたのも、トップからのメッセージでした。
当社には「グループESG経営推進会議」が設置されており、リスク・コンプライアンスのマネジメントとサステナビリティ関連事案全般をそこで扱っています。その会議で私たちから「人権課題に取り組まないことは高いリスクにつながる。本格的に取り組むべき」と建言したところ、社長から「それほど重要な案件ならば急いで取り組むように」と指示されたのです。
多くの日本企業には「対応がきちんと完了してから報告する」という考え方が底流にありますが、指導原則に見られる欧米の発想では「最初にコミットメントを示す」ことが求められます。当社でも最初は「対応が整う前に人権方針を打ち出すのはリスクを伴う」との指摘もありました。
それに対し、「いま何の行動も示さないことは“何もやらないという意思の表明”か、あるいは“何もやっていない現状のあらわれ”と世界からは見なされる。方針を打ち出さないリスクの方がより深刻だ」と説明し、その結果、社長署名の人権方針を公表することになったのです。
北村弁護士 方針や行動を示さないことは「何もやらない」という意思の表明であり、そのリスクの方が深刻だという言葉は大変響きますし、社長自らの声で人権方針を公表したことが、全社一丸となった人権尊重への取り組みの加速につながっていることを強く感じます。
その後、2018年には日本企業初の「人権報告書」を発行されていますが、そこではANAグループが人権尊重に向けてどのような人権課題と向き合い、どのような取り組みを行ったのか、その結果として対応できた課題と、なお残されている課題を示すなど、透明性のある開示がなされています。報告書を発行した後のステークホルダーのみなさまの反応はいかがでしたか。
宮田氏 開示後、批判的なコメントはほとんどありませんでした。むしろ、「なぜ人権報告書を出したのか」をメディアや他企業にお話しする機会が増え、それらを通じてステークホルダーとの対話も厚みを増すというプラスの効果が生まれました。
北村弁護士 人権尊重への取り組みを積極的に開示することにより、ステークホルダーとの密度の濃いエンゲージメント(対話)の機会を設けることにつながり、ポジティブな効果があったということですね。
宮田氏 そうですね。「指導原則」には開示の雛型が示されているので、当社はそれに沿う方向で、何を目指し、現在どこまで進んでいるかを、過去のダイアログを含めて開示しています。大切なのは、さまざまなステークホルダーと対話しながら開示を進めることです。
投資家の方からは「私たちが欲しいのは“オンゴーイング”な情報。終わったことについては報告が掲載されていればそれでいい」との声も寄せられており、どんな情報が求められているのかを踏まえて開示の仕方を検討しています。
また、あるNGOからは「先進的なグローバル企業と比較するとまだ物足りない部分はあるものの、まずは報告書を発行したことが評価に値する」というコメントもいただき、やはり開示することのメリットは大きいと感じます。
北村弁護士 貴社の片野坂社長(当時)が人権報告書で「不断の取り組みが求められる長い旅」と表現されているように、人権尊重への取り組みには「これで完了」という「終わり」がありませんから、経営トップがメッセージを発信し続け、常に情報を開示し、ステークホルダーと継続的に対話をしていくことが非常に大事ですね。そうした努力の積み重ねが必要なテーマなのだと思います。
日々のオペレーションまでの浸透に注力
北村弁護士 人権尊重に関する理念が全社に、さらには取引先にまで広く深く行き渡るには、どうしても時間がかかるものです。浸透を加速するためにどんな工夫をなさっていますか。
宮田氏 社内への浸透を図る施策としては、eラーニングを実施しています。4万人以上いるグループ社員に向けて、そもそも人権とは何か、具体的な例を取り上げ、アニメーションなども用いたわかりやすいコンテンツを提供しており、90%近い社員が受講しています。
北村弁護士 4万人以上の社員全員に人権課題を「自分ごと」として捉えてもらうのは、簡単なことではないですよね。
宮田氏 そうなんです。人権尊重はSDGsの他の目標と同様、総論では誰もが賛成します。ですが、現場で毎日そのことを考えながらオペレーションしているかというと、なかなかそこまではいきません。
ですからワークショップを開催するときは、客室乗務員や整備士など現場の受講者に向けて「みなさんが現場で日々実践している環境や安全への配慮も、すべて人権課題への取り組みにつながっている」と伝え、自らの業務との関係が意識できるよう促しています。そこは地道にやるしかありませんね。
北村弁護士 社内や関係取引先などに浸透させるためにも、とにかく継続して、人権尊重の重要性や意義について教育や議論を行う場を設けていくことが重要ですね。
※ 対談後編「人権尊重の取り組みから企業価値を創出する」については、こちらからご覧ください。
※ 本記事はPwC Japanグループのオウンドメディア「Value Navigator」からの転載です。
北村 導人
PwC弁護士法人 代表/弁護士・公認会計士
大手監査法人や大手法律事務所などを経て、2016年にPwC弁護士法人入所。2020年より代表。ESG/サステナビリティ関連法務(人権関連法務等)、税法・会計が交錯する企業法務、税務、ウェルスマネジメントなどを主に専門とする。
宮田 千夏子
ANAホールディングス株式会社 執行役員 サステナビリティ推進部長
1986年全日本空輸株式会社入社。2011年スカイネットアジア航空株式会社に出向。2015年からANAホールディングス株式会社に出向、2016年にコーポレートブランド・CSR推進部副部長となる。2020年からANAホールディングス執行役員、グループ法務・グループ総務・サステナビリティ推進副担当、サステナビリティ推進部長。