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はじめに—転換期を迎える「ビジネスと人権」と中小企業の現在地

2022年9月に、政府が「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定して以降、我が国の「ビジネスと人権」(Business and Human Rights。以下「BHR」という)を取り巻く状況は、少しずつではあるが確実に動き始めている。政府の「『ビジネスと人権』に関する行動計画」(National Action Plan。以下「NAP」という)も、2020年策定の旧計画(2020-2025)の見直しを経て2025年12月に改定版が決定され、2026年度から新たな計画がスタートした。取適法(中小受託取引適正化法、旧下請法)、フリーランス・事業者間取引適正化等法、育成就労制度、改正公益通報者保護法と、人権に関わる法整備も相次いでおり、企業が人権尊重にどう向き合うかは、これまで以上に厳しく問われる時代になったと実感している。

目を国外に転じると、EUでは2024年7月に企業サステナビリティ・デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)が発効した。2025年以降のいわゆる「オムニバス」による簡素化・適用延期の動きにより、最終的な規律の姿はなお流動的であるものの、人権・環境に関するデュー・ディリジェンスを国際規範に沿って着実に進めるべきという大きな流れ自体に変わりはない。こうした規制は、直接の適用対象ではない日本企業に対しても、取引先からの要請という形でじわじわと及んでくることになるだろう。

このような潮流を受けて、上場企業をはじめとする大企業では、サステナビリティ部門の新設など人権尊重の取り組みが格段に進んだ。一方、日本企業の圧倒的多数を占める中小企業に目を向けると、BHRの認知度も取り組みも、残念ながらまだ低いままである。日本貿易振興機構(ジェトロ)が2024年に実施したアンケート調査注1)によれば、人権方針を策定している企業は大企業の76.0%に対し中小企業では32.5%、人権デュー・ディリジェンス(以下「人権DD」という)を実施している企業に至っては、大企業の46.7%に対し中小企業はわずか11.3%にとどまる。同調査の対象は海外ビジネスに関わる日本企業であり、海外展開を視野に入れる企業ですらこの水準であることを踏まえると、国内取引中心の中小企業を含めた実態は、さらに厳しいものと推察される。しかも、人権DDを実施する予定がない中小企業にその理由を尋ねると、最も多かった回答は「具体的な取り組み方法がわからないため」(39.5%)であった。もっとも、同じ調査で人権DDを実施している企業にその理由を尋ねると、中小企業を含め「人権尊重は企業の責任と認識している」との回答が最多であった。「企業の責任である」という認識にさえたどり着けば、中小企業もまた自ら動き出すのではないかという希望を持てる回答であるが、裏を返せば、その認識への入口をいかに開くかこそが課題となりうる。
本稿では、筆者が日弁連ESGセミナーでお話しした「中小企業のビジネスと人権~大阪弁護士会と弁護士の取組みと課題を中心に」の内容を踏まえ、大阪弁護士会が積み重ねてきた中小企業向けの実践的支援の歩みと、その現場から見えてきた「三つの壁」、そして中小企業がこれから踏み出すべき実践のステップと外部専門家の役割について論じたい。なお、本稿の内容は筆者の経験に基づく個人の見解であり、所属・関係組織の意見そのものを示すものではない点、あらかじめご了承いただきたい。

持続可能な社会における中小企業の重要性

2015年に国連で採択されたSDGs(持続可能な開発目標)が示すとおり、持続可能な社会の実現には「環境」「経済」「社会」のバランスが欠かせないのであるが、人権の尊重はその「社会」の中核をなすものである。この点、NAPも、SDGsの実現と人権の保護・促進は相互に補強し合う表裏一体の関係にあるとの考えに立ち、その策定をSDGs実現に向けた取り組み、および日本の成長戦略の一つとして位置づけてきた。2023年12月に改定された「SDGs実施指針」も、BHRや責任あるサプライチェーン等への取組が、SDGsの目指す持続可能な経済・社会・環境づくりに貢献するうえで不可欠であり、企業が国際社会からの信頼やグローバルな投資家からの評価を得るうえでも重要であると明記している。そして新計画もこうした位置づけを引き継ぎ、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」(以下「指導原則」という)に基づく人権尊重の取組を、企業の持続的・安定的な成長に寄与しうる行動として位置づけていくことの重要性を打ち出した注2)。すなわち、人権の尊重は、公正で持続可能な経済・社会の実現に資するだけでなく、企業自身の信用の維持・獲得や企業価値の向上にもつながり、社会全体の人権尊重とビジネスの一層の促進という好循環を生むものと考えられる。
この好循環の担い手となるべき企業群のうち、中小企業は全企業数の99.7%(うち小規模事業者84.5%)を占め注3)、常用雇用者数で見ても約65.6%が中小企業で働いている。事業活動が「人」と関わる以上、人権リスクと無縁の事業は存在しない。我が国で真の人権尊重を実現しようとするなら、社会の土台を支える中小企業の取り組みを抜きに語ることはできないということである。
BHRの最も重要な国際規範である指導原則も、この点で中小企業を例外扱いしていない。指導原則は、注4)その出発点として尊重すべき基本的権利には、国際労働機関(ILO)の中核的労働基準である、結社の自由と団体交渉権、強制労働の撤廃、児童労働の禁止、差別の撤廃、および労働安全衛生(2022年に中核的基準に追加)がある注5)が、企業が想定しておくべき人権課題はこれらにとどまらない。各種ハラスメントやプライバシー、近時はテクノロジー・AIをめぐる課題まで、企業が想定しておくべき人権課題は実に幅広いのである。
こうした幅広い課題を前に、資金や法務機能に限りのある小規模企業ほど、労働環境や取引関係において人権侵害のリスクを抱えやすいのが現実である。しかし、見方を変えれば、サプライチェーンの深層(Tier 2、Tier 3といった上流側)に位置することの多い中小企業は、生産や労務の現場で起こりうる問題に物理的にも心理的にも近く、大企業よりも直接的な影響力を発揮できる立場にあるという強みを持っている。経営者自身が仕入先・外注先や地域社会と深いつながりを持つことの多い小規模企業が適切に関与すれば、大企業による間接的な働きかけよりも、はるかに実効的でスピーディーな是正が期待できるはずである。リスクの近くにいるということは、裏を返せば、解決の近くにいるということでもある。

大阪弁護士会のアウトリーチ事業

こうした課題意識を背景に、大阪弁護士会の弁護士業務改革委員会SDGs部会は、中小企業の人権尊重を後押しするべく、先駆的な活動を重ねてきた。その源流は2021年9月に始動したSDGsグループの活動に遡る。2022年4月には同委員会の一部会として独立し、人権DDを通じて企業活動における人権尊重を促進することを目標に掲げた。
2023年度には、BHRを中小企業と弁護士の双方に広く知ってもらうため、大阪・関西万博の共創チャレンジに「人権DD☆100社チャレンジ!」としてプロジェクトを登録し、府内を中心とする中小企業に対して無償で人権DDの実施を支援する取り組みをスタートさせた。先進的な中小企業経営者を招いた講演会や、日本CSR普及協会近畿支部の会報誌への寄稿など、現場目線での啓発を進めたところ、意外なことに大手企業からも支援の問い合わせが寄せられるなど、関心の広がりを実感する場面もあった。
2024年度以降は、弁護士だけの活動という枠を越えて、外部機関との連携を深めている。国連開発計画(UNDP)と共催した「ビジネスと人権研究会」や、中小企業診断士会との共同セミナーなどを通じて実務的なネットワークを築くとともに、独自の「人権DD簡易チェックリスト」も作成した。経営者自身が設問に答えていく過程で、自社にも人権リスクが存在しうることに気づき、BHRが「遠い国の問題」でも「大企業だけの義務」でもなく、ほかならぬ自社の経営課題であると認識してもらうことをねらいとしたものである。2025年度には、東京弁護士会所属の伊藤和子弁護士をお招きしてNGOの視点を交えた講演をしていただいたほか、グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン(GCNJ)のCSR調達カードゲームを用いたワークショップ、公認会計士・社会保険労務士との専門家連携など、支援の体制をさらに厚くしており、将来的には「中小企業向け外部通報窓口」の構想も視野に入れている。

現場から見えた「三つの壁」

「100社」という具体的な目標を掲げて中小企業へのアプローチを重ねる中で、理念だけでは越えられない三つの壁が浮かび上がってきた。
第一は、認知とアクセスの壁、すなわち情報がそもそも届かないという壁である。「ビジネスと人権」という言葉自体が経営者に届いていない。耳にしたことがあっても、「遠い国の児童労働の話」とか「余力のある大企業の義務」などと受け止められてしまうのが現実である。大企業には機関投資家のESG評価や海外法規制という明確な外圧が働くのに対し、非上場で海外展開もしない中小企業には、こうした情報が直接届く経路そのものが乏しい。さらに厄介なのは、「人権」という言葉の重みである。この語の強さゆえに「うちは差別も虐待もしていない」という拒絶反応を招きやすく、経営課題としての議論になかなか結びつかない。この壁を越えるには、弁護士だけで動くのではなく、中小企業診断士・公認会計士・社会保険労務士等の企業と密接な関わりを持つ隣接士業や、各地の商工会議所・経済同友会・経営者協会といった地域密着型の経済団体、つまり「経営者にとって身近な相談相手」と連携して日常的な接点を作ること、そして専門用語を避けた平易な言葉で発信し続けることが有効だと考えている。
第二は、マインドセットの壁、すなわち情報が届いても実行に踏み出せないという壁である。必要性を頭では理解してもらえても、いざ実行となると「費用対効果」という現実の壁にぶつかる。専門家に支払う費用という目先のコストが、貸借対照表や損益計算書のうえで中長期的にどのような「投資」として返ってくるのか、これを経営者に説得的に示しきれていないのである。「労働基準法等を守っていれば足りるのではないか」という、法令遵守(コンプライアンス)との混同も根強い。これに対しては、たとえば「人権リスクは、放置すれば将来顕在化する偶発債務である」というように、経営者が日々使っている言葉でリスクと便益を語ることが効果的であろうと思われる。取引停止リスクの具体的な説明や、労働環境の改善が離職率の低減につながったといった具体的なデータを提示することができれば、経営者の認識を「コスト」から「投資」へと切り替える鍵になりうると感じている。
第三は、実践の壁、すなわち支援が本当に必要な企業ほど届かないというジレンマである。無償の人権DD支援に自ら手を挙げてくれる企業は、もともと経営者の人権感度が高く、社内環境も良好であることが多い。そのため簡易な人権DDでは深刻な人権侵害が見つかりにくく、「特段の問題は認められなかった」という報告に専門家としてどう価値を付加するかが課題となる(いわゆる「ホワイト企業のジレンマ」である)。そしてその裏側には、より本質的な問題が潜んでいる。不法就労や劣悪な労働環境など、本当に深刻な問題を抱える企業(Tier 3以下の深層サプライヤー等)ほど、人権DDの網にかからず、対話の場にも現れてこないのである。これを乗り越えるには、人権DDを「粗探し」や「チェックリストの穴埋め」で終わらせないことが求められる。見つかった小さな課題を業務改善や組織力の強化につなげる「付加価値型の人権DD」へ高めることと、机上の調査にとどまらず従業員や労働組合等のステークホルダーとの対話(ダイアローグ)を実践することが重要なポイントになるであろう。

実践のファーストステップと外部専門家の役割

前述のジェトロ調査によれば、人権DDの実施に至っていない中小企業が挙げた最大の理由は「具体的な取り組み方法がわからない」というものであり、これに次いで多かった理由は「顧客から特に要請がないため」であった。これを裏返せば、中小企業がBHRに踏み出す大きなきっかけの一つは、大企業等の取引先からの要請だということになる。サプライチェーンの起点に立つ大企業の責任は、この点においても大きいといわなければならない。そして中小企業の側から見れば、取引先から届く自己評価質問票(Self-Assessment Questionnaire。以下「SAQ」という)への回答や調達方針の遵守要請は、降ってきた負担ではなく、BHRに着手する絶好の機会である。これらを出発点とする「スモールスタート」こそが、有効な第一歩となる
実践のフレームワークとしては、中小企業家同友会が提唱する五つのステップが参考になる注6)。すなわち、①現状確認(チェックリスト等によるリスクの把握)、②人権方針の策定(経営トップの承認に基づくコミットメントの表明)、③課題検討・実施、④PDCAサイクルを回す、⑤相談窓口など「声を聴く仕組み」の確立、である。なかでも重要なのが、従業員・顧客・取引先・地域社会といったライツホルダー(権利保持者)のマッピング注7)である。経営者が「当社に人権課題はない」と思い込んでいたとしても、当のライツホルダーがどう感じているかは別の話である。直接の対話を通じてそれを把握することが欠かせない
リソースに限りのある中小企業では、ゼロから新しい制度を作り込む必要はない。既存の労務・安全衛生管理体制や社内規程、内部通報制度を活かすのが現実的である。独自の苦情処理(グリーバンス)メカニズムの設置が難しければ、厚生労働省の労働相談窓口や法務省の人権相談窓口といった公的窓口を社内に周知するだけでも、立派な取り組みの一つになる。
ここで期待されるのが、弁護士をはじめとする外部専門家の役割である。近時、大企業から人権方針への同意やSAQへの回答を求められるケースが増えているが、十分な背景説明のないまま要請だけが下りてくるため、中小企業の現場では「求められた部分だけを取り急ぎ処理する」という断片的で受け身の対応に陥りがちである。弁護士の仕事は、その要請が取適法等に照らして不当でないかをリーガルチェックすることにとどまらない。「なぜ今、この取り組みが必要なのか」という全体像を丁寧に説明し、経営陣のなかに「納得感」を育てていくことこそが、弁護士の担うべき役割だと考えている。あわせて、指導原則の視点である通報受付の多言語化や報復禁止の実効性確保などを既存のオペレーションに無理なく落とし込む助言や、グリーバンス・メカニズムの充実への伴走も有用である。さらに視野を広げれば、ドイツの「SME Compass」や東京都の「社会的責任調達指針」のように、国・自治体によるインフラ的支援や公共調達を通じたインセンティブの付与も、今後の普及に欠かせない要素となるだろう。

おわりに—受動的な対応から能動的な価値創造へ

中小企業のBHRには、リソースの不足、認知の壁、マインドセットの転換と、越えるべきハードルが確かに少なくない。しかし、悲観すべき材料ばかりではない。中小企業には、ひとたび経営トップの「納得感」さえ得られれば、大企業には真似のできない速さで取り組みが組織全体に浸透するという強みがある。経営陣と従業員、直接の取引先や地域社会との距離が物理的にも心理的にも近く、対話や協議を自然な形で実現しやすいことも、大きな利点である。
人権尊重の取り組みは、単なるリスク回避という「守り」にとどまらず、優秀な人材の確保や新たな取引先の開拓を通じて、企業価値の向上に直結する「攻め」の経営施策になりうると、筆者は考えている。従業員が尊厳をもって安心して働ける環境を整えることは、離職率の低下や生産性の向上をもたらす、まぎれもない経営戦略そのものとなるはずである。
大阪弁護士会が実践してきた現場密着型の支援は、中小企業が抱えるリアルな悩みに寄り添うものであり、そこから得られた知見は多くの示唆に富む。弁護士をはじめとする外部専門家に求められるのは、中小企業が本来持っているポテンシャルを最大限に引き出しながら、「やらされ感のある受動的な対応」を「自社の持続的成長と価値向上に資する能動的な取り組み」へと転換させていくことである。それこそが、BHRの真の普及と持続可能な社会の実現に向けた最大の鍵になることを期待する。

【参考文献・参考資料】

石田明子「中小企業における『ビジネスと人権』の未来~受動的な取り組みから、能動的な取り組みへの転換に向けて~」Business & Law(2025年9月24日)

法務省「『ビジネスと人権』ファーストステップ~中小企業向け取組事例集~」(2025年3月)

一般財団法人国際経済連携推進センター(CFIEC)「中小企業のための人権デュー・ディリジェンス・ガイドライン」(2022年2月)

川嶋康子・新田沙織「人権尊重を経営の中核へ-中堅・中小企業の実践事例 中堅・中小企業の『ビジネスと人権』への取り組みの実践(日本)」日本貿易振興機構(ジェトロ)(2026年3月27日)

末楓花・深山雄一郎「中堅・中小企業における人権デュー・ディリジェンスの実践」三菱UFJリサーチ&コンサルティング(2025年10月21日)

丹波栄蔵「企業が想定すべき主な人権リスク(26類型)」RSM汐留パートナーズ(2025年5月23日)

coe company「人権方針の作り方|項目例・要件・策定4ステップを網羅解説」(2025年5月27日)

法務省「企業における人権研修~企業の人権研修担当の方々へ」

→この連載を「まとめて読む」

  1. 日本貿易振興機構調査部「日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査-高まる地政学リスク、サプライチェーン再編へ-」(2025年2月4日)[]
  2. ビジネスと人権に関する行動計画の実施に係る関係府省庁施策推進・連絡会議「『ビジネスと人権』に関する行動計画(改定版)」(2025年12月)[]
  3. 中小企業庁「中小企業・小規模事業者の数(2021年6月時点)の集計結果を公表します」[]
  4. 国際連合広報センター「ビジネスと人権に関する指導原則(和訳)」(2011年3月21日)[]
  5. 厚生労働省国際課‐ILO駐日事務所「労働におけるビジネスと人権チェックブック」(2024年10月)[]
  6. 中小企業家同友会全国協議会「人間尊重経営を深めるための『ビジネスと人権』実践の手引き」(2025年9月)[]
  7. 企業活動によって人権侵害の悪影響を受ける、または受ける可能性がある個人やグループを特定し、その関係性を構造的に整理するプロセス。)[]

檜山 洋子

ヒヤマ・クボタ法律事務所 弁護士・米国ニューヨーク州弁護士・公認不正検査士

93年広島大学法学部卒業。97年広島大学大学院社会科学研究科修了。00年弁護士登録。06年神戸大学大学院経営学研究科修了(MBA取得)。09年米国ロースクール環境法専攻修了。10年米国ニューヨーク州弁護士登録。22年神戸大学大学院法学研究科博士課程修了・法学博士号取得(知的財産権法)。上場会社等において社外役員を務めつつ、日々、中規模・小規模会社の法律・経営相談に乗っている。