はじめに
シンガポールにおいては、外資企業を積極的に誘致して自国の経済を発展させてきたという歴史的背景もあり、“一定の重要な事業分野にのみ外資規制を行い、それ以外の対内直接投資については原則として制限を行わない”というのが従前の枠組みでした。具体的には、従前、不動産、メディア、金融の三つのセクターに関してのみ、個別法令により許認可等の付与要件等の枠組みの中で外資規制を行っていたものの、日本における「外国為替及び外国貿易法」(昭和24年12月1日法律第228号。以下「外為法」といいます)や米国におけるCFIUS(Committee on Foreign Investment in the United States、対米外国投資委員会)関連法案のように、対内直接投資(foreign direct investment)を横断的に規律する法律は存在しませんでした。
もっとも、近年の複雑化する国際情勢に伴う各国における対内直接投資に関する規制強化の潮流に従い、シンガポールにおいても自国の国家安全保障上の利益を保護するために、シンガポール法人等への投資を横断的に制限する重要投資審査法(Significant Investment Review Act)が2024年1月9日に国会で可決され、同年3月28日から施行されています。同法は政府が個別に指定する一定の法人等(designated entities、以下「指定企業」といいます)に対する投資等を制限するものであり、従前の個別法令に基づくセクターに関する規制だけではカバーしきれない、いわば“抜け穴”となってしまっている企業等に対する投資等にも制限を及ぼすことができ、従前のセクターに関する規制を補完しつつ、新しい体制を導入するものとして成立しました。したがって、重要投資審査法の施行後も、従前の個別法令による規制は維持されています。
なお、重要投資審査法の規制対象には、外国投資家による投資等のみならず、国内投資家による投資等も含まれます。このように、厳密には対内直接投資に限った規制ではありませんが、いずれにせよ外国投資家による投資等には適用されますので、日本企業による投資等に際しては留意が必要であることに変わりはありません。
以下、本稿では、個別法令による従前の外資規制の枠組みの概要(下記Ⅱ)、および重要投資審査法に基づく新たな規制の概要(下記Ⅲ)につき詳述します。
個別法令による従前の外資規制の枠組み
シンガポールにおいては、従前から不動産、メディア、金融の三つのセクターについては外資規制が存在しており、これらは現在も有効です。具体的な規制内容は図表1のとおりです。
図表1 シンガポールにおける従来からの外資規制
セクター |
項目 |
外資規制の内容 |
不動産 |
関連法令 |
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所管庁 |
シンガポール国土庁(Singapore Land Authority) |
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規制の具体的内容 |
外国人による住宅等(コンドミニアム等を除く)の取得にあたっては、シンガポール国土庁による事前承認が必要 |
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メディア |
関連法令 |
・ 放送事業者:Broadcasting Act 1994 ・ 新聞社および出版社:Newspaper and Printing Presses Act 1974 ・ 通信事業者:Telecommunications Act 1999 |
所管庁 |
シンガポール情報通信メディア開発庁(Info-communications Media Development Authority of Singapore) |
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規制の具体的内容 |
放送事業者: ・ 外国投資家が49%以上の株式または議決権を保有している場合、当該事業者に対してはラインセンスを付与しない ・ 5%以上の議決権または12%以上の株式もしくは議決権を保有するにあたっては、シンガポール情報通信メディア開発庁の事前承認が必要 新聞社および出版社: ・ 5%以上の株式または議決権を保有するにあたっては、シンガポール情報通信メディア開発庁の事前承認が必要 通信事業者 ・ 12%以上の株式または議決権を保有するにあたっては、シンガポール情報通信メディア開発庁の事前承認が必要 |
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金融 |
関連法令 |
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所管庁 |
シンガポール金融管理局(Money Authority of Singapore) |
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規制の具体的内容 |
シンガポールにおいて設立された銀行の5%、12%または20%以上の株式もしくは議決権を保有するにあたっては、シンガポール情報通信メディア開発庁の事前承認が必要 |
重要投資審査法に基づく新たな規制
上記Ⅰのとおり、重要投資審査法は指定法人に対する投資等を制限するものですが、当局には、指定企業以外の法人等との関係でも権限を行使できる、いわゆる“コールイン権限”も認められています。
以下、審査主体(規制執行機関)(下記⒈)と制限の実体的要件(指定企業の決定に関するメカニズム、規制の対象となる投資等、指定企業以外の法人等にも適用されるコールイン権限)(下記⒉)、審査に関する手続(下記⒊)に分けて説明します。
審査主体(規制執行機関)
重要投資審査法に関する所管官庁は通商産業省(Ministry of Trade and Industry、以下「MTI」といいます)であり、MTIの内部に、同法の監督および運用を目的とした重要投資審査局(Office of Significant Investments Review、以下「OSIR」といいます)が設置されています。
指定企業の決定に関するメカニズムおよび現在の指定企業
本稿作成日現在において、九つの法人等が指定企業として指定されています。指定企業の決定に関するメカニズムおよび現在の指定企業の詳細は以下のとおりです。
(1) 指定企業の決定に関するメカニズム
重要投資審査法は、貿易産業大臣(Minister of Trade and Industry)に対し、指定企業の決定に関する権限を付与しています。具体的には、下記①~③に列挙する類型の法人等について貿易産業大臣が“シンガポールの国家安全保障上、指定が必要である”と判断した場合、同大臣は当該法人を指定企業とすることができるとされています(重要投資審査法17条1項)。特に、指定企業となる法人等が、シンガポール法に依拠して設立されたシンガポール法人等に限定されていない点に留意が必要です。
① シンガポール法人(Any entity incorporated, formed or established in Singapore)
② シンガポールにおいて、事業を行っている法人(Any entity that carries out any activity in Singapore)
③ シンガポールに所在する者に対し、物品またはサービスの提供を行っている法人(Any entity that provides any goods and services to any person in Singapore)
上記のとおり、指定企業となるのは、貿易産業大臣が“シンガポールの国家安全保障の観点から指定が必要である”と判断した法人とされていますが、重要投資審査法上、国家安全保障等に関する具体的な定義、基準等は存在していません。これは、急速に変化する世界情勢の中で、時間の経過とともに出現する可能性のある新たなリスクに柔軟に対処し、重要投資審査法に基づく規制の実効性を担保することを目的としていると考えられます。このように“国家安全保障”という比較的解釈の幅の広い概念を使用して不測の事態に備えるというアプローチは、米国を含む他の外国投資制度にも採用されており、世界的に珍しいことではないと思われます。
もっとも、重要投資審査法の成立にあたって発表された貿易産業大臣の声明においては、以下の各要素を総合考慮するとされています。
・ 当該法人がシンガポールの国家安全保障上の利益に関連して重要な機能を有しているか
・ 当該法人が国家安全保障上代替性がない、または代替性に乏しいか
・ 国家安全保障上の利益が、他の既存の法律によって既に規制されているか
(2) 現状の指定企業
MTIは、2024年5月31日付官報(Government Gazette on 31 May 2024, No. 1731 “SIGNIFICANT INVESTMENTS REVIEW ACT 2024, DESIGNATION OF DESIGNATED ENTITY”)において、計9社のシンガポール法人を指定企業として指定したと発表しました。具体的には図表2のとおりです。
図表2 指定された9法人(2024年5月現在)
No. |
指定企業名 |
関連業種 |
1. |
ST Logistics Pte. Ltd. |
物流 |
2. |
Sembcorp Specialised Construction Pte. Ltd. |
建設設計(シンガポールのエネルギー会社の子会社) |
3. |
ST Engineering Marine Ltd. |
造船および海洋サービス |
4. |
ST Engineering Land Systems Ltd. |
防衛装備および防衛ソリューション |
5. |
ST Engineering Defence Aviation Services Pte. Ltd. |
防衛装備および防衛ソリューション |
6. |
ST Engineering Digital Systems Pte. Ltd. |
デジタルサービス |
7. |
ExxonMobil Asia Pacific Pte. Ltd. |
石油化学(米国大手石油会社の子会社) |
8. |
Shell Singapore Pte. Ltd. |
石油化学(英国大手石油会社の子会社) |
9. |
Singapore Refining Company Private Limited |
石油化学(米国大手石油会社(Chevron)の子会社とSingapore Petroleum Companyの合弁会社) |
このように防衛関連事業、エネルギー関連の企業、その他のインフラ(物流、海洋)等に関連する企業が指定企業として指定されており、いずれも従前のセクター規制では実現できなかった国家安全保障上重要な事業の保護を目的にしていると考えられます。また、デジタルサービス関連の企業も指定されていることから、政府関連情報、個人情報等の流用等に関する懸念等(日本の外為法に関するソフトウェア業、情報処理サービス業や、米国におけるTID米国事業の機微情報(Data)関連事業と類似)も読み取れるところです。
規制の対象となる投資等の行為
重要投資審査法においては、図表3で示すように
① 既存投資家および新規投資家の行為等
② 指定企業の行為等
③ 指定企業に対して権利行使する者の行為等
に関して、貿易産業大臣への通知または承認等の対応が必要となります。これらの行為は一定の株式保有割合・議決権割合(当該割合は事後的に貿易産業大臣が変更できるとされています)に紐づく形で指定されています。
図表3 重要投資審査法における規制
規制対象行為 |
規制の内容 |
承認の要件 |
① 既存投資家および新規投資家 |
||
(a)株式取得等:5%以上 指定企業に関する株式保有割合または議決権割合が5%以上になった場合 |
5%以上の保有者になった日から7日以内の貿易産業大臣に対する通知(事後通知) |
― |
(b)株式取得等:12%、25%、50%以上 指定企業に関する株式保有割合または議決権割合が12%、25%または50%以上になる場合 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
・ 投資家およびその関連企業等がいずれも適格基準(fit and proper)を満たすこと ・ 上記投資家およびその関連企業の影響力のもと、指定企業の事業が運営されること ・ 承認を行うことがシンガポールの国家安全保障上の利益に反しないこと |
(c)株式取得等:間接的な支配者 指定企業に関する間接的な支配者(株式または議決権の保有の有無にかかわらず、取締役会に対して指示を行うことができる者、または会社の方針を決定できる地位にある者)になる場合 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
|
(d)事業の取得 指定企業の実施中の事業の取得 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
・ 投資家およびその関連企業等がいずれも適格基準(fit and proper)を満たすこと ・ 事業取得が、シンガポールにおける指定企業の事業の安全性および信頼性に影響を与えないこと ・ 承認を行うことがシンガポールの国家安全保障上の利益に反しないこと |
(e)株式処分等:50%、75%を下回ることになる場合 指定企業に関する株式保有割合または議決権割合が50%または75%を下回ることになる場合 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
・ 投資家の左記行為後も、指定企業の事業運営が継続すること ・ 承認を行うことがシンガポールの国家安全保障上の利益に反しないこと |
② 指定企業 |
||
(a)以下の事象を認識した場合 ・ 新規投資家または既存投資家の株式保有割合または議決権割合が5%、12%、25%または50%になったこと ・ 既存投資家の株式保有割合または議決権割合が50%または75%を下回ったこと ・ 指定企業に関する間接的な支配者の存在 ・ 指定企業の実施中の事業の取得 |
当該事象を認識した日から7日以内の貿易産業大臣に対する通知(事後通知) |
― |
(b)重要な人員の変更 指定企業の取締役、CEO、取締役会の議長等の変更 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
法令上特に記載なし(別途貿易産業大臣が指定企業ごとに承認基準を設定することは可能) |
(c)解散 指定企業の解散 |
貿易産業大臣からの事前承認の取得 |
法令上特に記載なし |
③ 指定企業に対して権利行使しようとする者 |
||
(a)資産に付された担保権の実行 指定企業の資産に付された担保権の実行 |
当該担保権の実行のための行為を開始する14日前の通知 |
― |
(b)判決等の実行 指定企業に対する判決等の実行 |
当該判決等の実行のための行為を開始する14日前の通知 |
― |
なお、表中の①(b)~(e)や②(b)(c)のように貿易産業大臣からの承認が必要となる行為が承認なしに実行された場合、貿易産業大臣が別途認めない限り、当該取引は無効になります。
事前承認に関する手続
上記の事前承認が必要な行為について事前承認申請を受領し、かつ当該行為が上記の承認要件を充足している場合、貿易産業大臣は承認を行うことができます。なお、貿易産業大臣は承認にあたって一定の条件をつけることも可能です。
仮に貿易産業大臣が承認を拒否した場合、または申請者が条件付承認の条件に不服がある場合、申請者は当該決定等から14日以内に異議申立てを行うことができます。かかる異議申立てに関する貿易産業大臣の決定に不服がある場合、当該決定から30日以内に審査廷(reviewing tribunal)に対して審査請求を行うことが可能です。
指定企業以外の法人等にも適用されるコールイン権限
ここまでは指定企業に関連する行為等に適用される規制内容を確認しましたが、Ⅲの冒頭で述べたとおり、重要投資審査法において、貿易産業大臣は指定企業以外の法人等(シンガポール法人、シンガポールにおいて、事業を行っている法人またはシンガポールに所在する者に対し、物品またはサービスの提供を行っている法人)の株式または事業を取得等した者が当該取得から2年経過後までにシンガポールの国家安全保障上の利益に反する行為を行った場合、当該取得者に対して以下の権限(コールイン権限)を行使できるとされています。
① 株式、議決権、事業の一定期間内の処分
② 株式、議決権の処分の制限
③ 当該対象法人による情報の提供の制限
④ その他貿易産業大臣が適当と考える行為
かかるコールイン権限は、取引の完了から2年30日経過後までに貿易産業大臣が審査を開始した旨の公表を行うことで行使できるため、MTIが対象となる法人を指定企業として指定できなかった場合であっても、一定の規制を行うことができるキャッチオール的な側面を有しています。したがって、企業としては、取引実行後も約2年経過時までは当局が取引を取り消す可能性がある点に留意が必要です。
なお、現在のシンガポールにおいて、米国CFIUSにおける任意届出のような制度、すなわち“義務的な承認申請”は必要とされてないものの、取引の実行後に同取引が取り消されないよう、取引の実行前に承認申請を行ったうえで承認を得ることでセーフハーバーを取得するための制度も存在しません。もっとも、当該コールイン権限を貿易産業大臣が頻繁に行使する場合には外国投資家による投資が過度に抑制されてしまう可能性があり、当該事態はシンガポール経済の発展にとって好ましくない結果につながると思われます。いずれにせよ今後当該権限がどのように行使されていくか、注視が必要です。
おわりに
重要投資審査法に基づく手続は施行されてから日が浅く、また指定企業も9法人しか存在しないため、さらなる実務の蓄積が待たれるところです。指定企業については公表されるため十分に注意を払っていれば問題はないと思いますが、当局によるコールイン権限がどの程度の範囲、頻度で行使されるかについては現状予測がついていないため、引き続きの注視が必要となるでしょう。
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鈴木 洋介
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業 パートナー弁護士
2009年早稲田大学法学部卒業、2011年東京大学法科大学院卒業。2012年弁護士登録、2013~2014年外立総合法律事務所勤務。2014年アンダーソン・毛利・友常法律事務所入所。2018年米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校ロースクール卒業(LL.M.)。2018~2019年Pillsbury Winthrop Shaw Pittman法律事務所(米国ロサンゼルス)勤務。2019年~アンダーソン・毛利・友常法律事務所シンガポールオフィス勤務。主にクロスボーダーM&A、コーポレート、スタートアップ支援(Corporate Inversion、シンガポール子会社の設立、資金調達等)を取り扱っている。2024年7月東南アジアM&Aセミナーを開催。
ジェスリン コー
アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業 アソシエイト弁護士
2020年Singapore Management University卒業(LL.B.)。2021~2023年三菱地所アジア社勤務。2022年シンガポール弁護士登録、2023年アンダーソン・毛利・友常法律事務所シンガポールオフィス入所。企業法務、不動産、コンプライアンスおよびコーポレートガバナンスの経験を有し、中国語での法律文書も取り扱っている。