―現役知財法務部員が、日々気になっているあれこれ。本音すぎる辛口連載です。
※ 本稿は個人の見解であり、特定の組織における出来事を再現したものではなく、その意見も代表しません。
Wordのコメント機能にまつわる素朴な疑問
今回のテーマに関して、法務関係者からあまり不満や課題意識を聞いたことがないので、筆者だけの違和感かもしれないのだが、お付き合いください。
契約書のドラフトを相手方に送付して、相手方から修正提案を受け取るとき、Wordのコメント機能で相手の法務部門と思われる担当者から補足や質問のコメントが入っていることがある。
そのコメントの内容について、「ごもっともですね」と思うこともあれば、
「それは困る」
「何言ってんだコイツは?」
と思うこともある。いろいろだ。それはいい。そこからお互いの考えを擦り合わせて合意点を見出していくのが仕事だ。
しかし、その作業をいつもほんの少し躊躇させるのが、相手のコメントの記名者表示(Microsoft Officeのユーザー名)だ。少なくない法務担当者が、あれを個人が特定できないイニシャルや、会社名(株式会社○○法務部)にしていると思うのだが、いったいなぜなのだろうか。
筆者は、契約交渉というものは、駆け引きなどはありつつも、基本的には、共通の目的に向かって相手方と協力して合意点を見いだしていく共同作業だと思っている。それゆえか、たとえWordのコメント欄でのやり取りだとしても、相手が匿名だと、どうもまどろっこしく感じるというか、迂遠に相手の腹を探ったり、余計な勘ぐりをしたくなったりしてしまう。
―おい、マッチングアプリか? 早めに腹割って話そうや!
いや、契約交渉にはそもそも“腹の探り合い”という側面があるし、相手の名前がわかったところで、その人の価値観や経験値までもがわかるわけではないので、実際の作業効率は別に変わらないのかもしれない。
しかし、「名前、それは燃える生命(いのち)」注1)と歌われるとおり、顕名によって相手が血の通った人間だと実感できれば、お互いの事情を想像しながら、建設的に落としどころを見出すスピードが高まるような気がしてならないのである。
だいたい、匿名のコメントで
「貴社案は一方的であり受け入れかねます。公正取引委員会のガイドラインに照らしても問題となり得るかと思料します」
などと言われると、正論だったとしても何だかムッとする。
そして、相手も匿名コメントだからこそ、こういう取引相手をムッとさせるようなドライな筆致を選択してしまうのではないだろうか。そうなると、匿名と匿名がお互いに正論をぶつけ合う、ストレスフルで硬直的なラリーを招きやすいように思う。
これは交渉効率が悪い。
ネット上の不毛な言い争いじゃないんだから、顕名にしたうえで
「ちょっとこの条件は、○○○という状況になった場合の当社の不利益が大き過ぎますし、公正取引委員会のガイドラインにも×××とあり、ここに照らしても問題があるかと…。なにとぞご再考ください」
とか言う方が、交渉がギスギスしないで済むんじゃないの?
匿名、ドライ、正論…。なぜ、法務担当者のコメントはいつもこうなのか?
“法務担当者が、匿名で、冷淡な筆致で正論をコメントする”という作法は、おそらく法律事務所の契約書レビューから持ち込まれた慣行ではないだろうか。
契約書レビューを法律事務所に委託し、外部の弁護士が相手方向けのコメントを記入することがある。この場合、弁護士が匿名で必要最低限のコメントをするのはわかる。
なぜなら、その弁護士は契約レビューのみを受任しているのであって、契約交渉を受任していないのであれば、その人は契約交渉の主体ではなくあくまで“黒子”の立場だからである。そして、その弁護士にはウマい交渉の仕方を考える義務もなく、契約書ドラフト上のリスクや間違いについて、クライアントに対して“正しく、誤解を生まないように”指摘することが求められるからである。
そうであれば、契約の相手方に対して名を名乗る必要はなく、また曖昧さを排除した端的なコメントが、基本的には適切であろう。
これを企業の法務担当者がマネしたのだと筆者は踏んでいる。しかし、企業の法務担当者は、契約当事者に所属する者としての主体性を持たねばならないし、いくら正論を言ったところで、相手を説得できず、契約をうまくまとめられなければ意味がない。
顕名で相手に向き合い、相手の心を動かすコメントを工夫すべきだと思うのだ。
いや、契約交渉の主体者はあくまで事業部門であって、バックオフィスたる法務部門はやはり“黒子”なのだから“匿名のドライな正論”でいいのだ、という考え方もあろう。
しかし、相手方からすれば、コメント主の所属部署が事業部だろうが法務部だろうが関係ない。契約相手が慇懃無礼なコメントを送ってきたら、身構えるだろう。
もし“法務部門は黒子”という立場をとるのであれば、黒子に徹し、姿を見せてはいけない。そのうえで、事業部門に法務コメントを相手方とのコミュニケーションに適した内容に翻案させ、事業部門の担当者の名前で、事業部門の意見として、交渉させた方がよいだろう。
“事業部向けコメント”と“相手方向けコメント”を使い分ける手間
実際、法務部門のコメントはあくまで“事業部門向け”と位置づけ、事業部門が相手方に修正案を送る時は「法務のコメントは削除するように」と指導している法務部門は多いと思う。これが徹底できればよいのだが、なかなか難しいのが現実である。
事業部門には、しばしば「法務のコメントを取引先に見せて何が悪いのかわからない」という状況があるし、「ウチの法務がこう言っています」とそのまま見せた方が効率的な場面もあるからだ。
そして法務部門も、内心それをわかっているから、相手方に見られても差し障りのない体裁でコメントを書き、差し障りのある内容を事業部門に伝えるときには、先のコメントとは区別できるようにして伝えるようにしているという方も少なくないのではなかろうか。
だが、“相手方に見られても差し障りのないコメント”を考えて書くくらいだったら、やはりいっそのこと、事業部門のコンセンサスを得たうえで、最初から“相手方に向けてのコメント”を書いた方が、スムーズな交渉が実現できると思うのだが、どうだろうか。
余談だが、作家は、編集者とは打ち合わせをするが、校閲者が別にいる場合、校閲者と顔を合わせることはほとんどなく、名前も知らないことも多い。そして、優れた校閲者ほど、書き手がまったく認識できていなかった細かい間違いや矛盾をバンバン指摘してくれるのだ。これ、書き手にとって非常にありがたいのだが、ごくたまに、校閲者と意見が合わず、「こう修正すべきだ」(校閲者)、「いや、これでいいんだ」(書き手)と、応酬になることがある。
そんなときこそ、赤字を赤字で塗り替える作業を繰り返すのではなく、お互い胸襟を開いて、こだわりたいポイントを明かした方が早いんじゃないかと思う。そう考えると、契約書の法務コメントと、書籍原稿の校閲って、案外似ているのかもしれない。
→この連載を「まとめて読む」
- 「ビューティフル・ネーム」(作詞:奈良橋陽子、伊藤アキラ)。オリジナル歌唱はゴダイゴ。[↩]
友利 昴
作家・企業知財法務実務家
慶應義塾大学環境情報学部卒業。企業で法務・知財実務に長く携わる傍ら、著述・講演活動を行う。新刊に『明治・大正のロゴ図鑑』(作品社)、他に『企業と商標のウマい付き合い方談義』(発明推進協会)、『江戸・明治のロゴ図鑑』(作品社)、『エセ商標権事件簿』(パブリブ)、『職場の著作権対応100の法則』(日本能率協会マネジメントセンター)、『エセ著作権事件簿』(パブリブ)、『知財部という仕事』(発明推進協会)などがある。また、多くの企業知財人材の取材・インタビュー記事や社内講師を担当しており、企業の知財活動に明るい。一級知的財産管理技能士として、2020年に知的財産官管理技能士会表彰奨励賞を受賞。
Amazon.co.jpでの著者紹介ページはこちら。