「ビジネスと人権」に対する社会的関心の高まりを背景に、日本でも多くの企業が人権尊重に向けた取組みを強化している。そんな中、企業活動において人権侵害がなされた場合に適切な救済措置を講じるための仕組み、いわゆる「グリーバンスメカニズム(苦情処理制度)」に注目が集まっている。
今回のセミナーでは、同制度の実務に詳しい西垣建剛弁護士をお招きし、グローバル標準内部通報管理ツール「WhistleB(ホイッスルビー)」をはじめ、世界で実績のあるSaaS製品を日本で導入・展開しているSaaSpresto株式会社の代表取締役社長、御手洗友昭氏の司会進行で、グリーバンスメカニズムの導入と運用方法についてご解説いただいた。
グリーバンスメカニズムとは?
「グリーバンスメカニズム」とは、人権侵害がなされた場合に適切な救済へのアクセスが備わっていることを確保する仕組みのことで、2011年6月に国連人権理事会で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則(以下「国連指導原則」という)」に基づく制度だ。
国連指導原則は法的拘束力のないソフトローだが、「ESGの観点から対応は不可欠です」と西垣弁護士はグリーバンスメカニズム導入の意義を強調する。
「ESG経営への取組みをアピールしている企業にとって、ESGの根幹ともいえる人権配慮に関わるグリーバンスメカニズムの整備は欠かせません。仮に、人権侵害に関する通報窓口がない状況でNGO団体から指摘を受けるような事態が起これば、レピュテーションの毀損は免れないでしょう。そのため、外部から指摘を受ける前に問題を早期発見・是正する仕組みが重要な意味を持ちます」
海外に目を向ければ、今年4月、欧州議会で企業サステナビリティ・デューデリジェンス指令(CSDDD)案が承認された。EU域内外の企業に対して人権・環境デューデリジェンスの実施を義務づけるもので、もちろん日本企業も対象となる。
また、ドイツでは2023年1月に「サプライチェーンにおける企業のデューデリジェンス義務に関する法律」が施行されており、ドイツ国内に1,000人以上の従業員を持つ企業に、サプライチェーンにおける人権や環境に関するデューデリジェンスの実施が義務づけられている。
一方、日本政府も2022年9月に「責任あるサプライチェーンにおける人権尊重のためのガイドライン」を公表し、グリーバンスメカニズムの確立等を求めている。ただし、企業における制度構築・運用に関しては「まだ過渡期の段階にあり、実務も固まっていない状況」だと西垣弁護士は指摘する。
それでも、複数の企業が制度を構築し、手続規程や調査結果をウェブサイトで公表するなど、先進的な取組みを進めている。また、国連指導原則に従って苦情受付業務を行う、一般社団法人ビジネスと人権対話救済機構(JaCER)のような組織もあり、「長期的には、法的な制度としての枠組みが構築されるはずです」と西垣弁護士は述べる。
グリーバンスメカニズムの構築方法
グリーバンスメカニズムを実効的に運用するためには、利用者がその存在を認知し、信頼して使用できる制度設計が求められる。そのため、構築には国連指導原則に基づく8つの要件(図表1)を満たす必要がある。
図表1 国連指導原則に基づくグリーバンスメカニズムの要件
① 正当性 |
苦情処理メカニズムが公正に運営され、そのメカニズムを利用することが見込まれるステークホルダーから信頼を得ていること。 |
② 利用可能性 |
苦情処理メカニズムの利用が見込まれる全てのステークホルダーに周知され、例えば使用言語や識字能力、報復への恐れ等の視点からその利用に支障がある者には適切な支援が提供されていること。 |
③ 予測可能性 |
苦情処理の段階に応じて目安となる所要時間が明示された、明確で周知された手続が提供され、手続の種類や結果、履行の監視方法が明確であること。 |
④ 公平性 |
苦情申立人が、公正に、十分な情報を提供された状態で、敬意を払われながら苦情処理メカニズムに参加するために必要な情報源、助言や専門知識に、合理的なアクセスが確保されるよう努めていること。 |
⑤ 透明性 |
苦情申立人に手続の経過について十分な説明をし、かつ、手続の実効性について信頼を得て、問題となっている公共の関心に応えるために十分な情報を提供すること。 |
⑥ 権利適合性 |
苦情処理メカニズムの結果と救済の双方が、国際的に認められた人権の考え方と適合していることを確保すること。 |
⑦ 持続的な学習源 |
苦情処理メカニズムを改善し、将来の苦情や人権侵害を予防するための教訓を得るために関連措置を活用すること。 |
⑧ 対話に基づくこと |
苦情処理メカニズムの制度設計や成果について、そのメカニズムを利用することが見込まれるステークホルダーと協議し、苦情に対処して解決するための手段としての対話に焦点を当てること。 |
西垣弁護士は、企業が具体的にどのような方策を取るべきか解説した。
「まず、グリーバンスメカニズムが公正に運営され、利用者であるステークホルダーから信頼を得ている必要があります(①正当性)。利用者である人権団体やNGO、地域住民の信頼を確保・維持するために、制度内容や手続を明示し、中立性・客観性を確保した運営が求められます。企業目線だけの制度ではないことを示すために、中立的な外部の第三者、たとえば人権関係に豊富な経験を持つ弁護士や専門家を運営に関与させることも重要なポイントです」
「次に、すべてのステークホルダーに通報しやすい環境を構築するため、ポスター作成や説明会の開催など、積極的に制度の存在やシステムの内容を広報することが大切です(②利用可能性)。言語や識字能力などの点でアクセス障壁がある利用者には、現地語でコミュニケーションしたり、場合によっては目安箱を設置したりするなど、ユーザーフレンドリーな制度設計を心がけてください」
「また、利用者に制度目的や手続のほか、実施される是正措置に関する情報をウェブページ等で提供することも重要です(③予測可能性)。利用者の「期待の管理」も欠かせません。安請け合いは避け、各プロセスの所要時間を明示するなど解決までのタイムラインを開示しておきましょう」
時間の都合上、全要件の解説は見送られたが、スライドで詳細な情報が提供された。
グローバル内部通報制度との違いとは
ところで、グリーバンスメカニズムと類似の制度に「グローバル内部通報制度」があるが、西垣弁護士は、「両制度は似て非なるものであり、別々に運用すべき」という私見を述べたうえで、その差異について次のように説明した。
「まず、利用者の範囲に大きな違いがあります。内部通報制度の場合、基本的に自社の役員および従業員に限定されており、せいぜい取引先従業員が含まれる程度です。一方、グリーバンスメカニズムの場合は、地域住民等も含む「すベてのステークホルダー」が対象となります」
「運営面でも、内部通報制度が基本的に社内の関係者のみで解決を図るところ、グリーバンスメカニズムでは外部の人権専門家を加えつつ、積極的な情報開示によって透明性を確保しながら解決が模索されます。前者が法令違反に関する問題を通報対象としているのに対し、後者は責任ある企業行動に関わるすべての問題(人権保護、環境保全など)を対象としている点も異なります」
さらに、グリーバンスメカニズムには内部通報制度のフローには通常含まれないプロセスがあり、その一つが国連指導原則に基づく要件の⑧に掲げられた「対話」だという。
「グリーバンスメカニズムでは、ステークホルダーとの対話が重視されています。企業に好都合な判断が下されることを防止するため、社会的弱者の意見が表明される場を設ける必要があるためです」
運用にあたっての留意点
続いて西垣弁護士は、グリーバンスメカニズの運用方法について解説。典型的な対応フロー(図表2)を示しつつ、ケーススタディを交えて具体的な留意点が示された。
図表2 典型的な対応フロー
通報受付後、処理を開始するかどうか意思決定をする必要があるが、通報者の属性(NGOの場合、信頼できる組織かどうか)や、通報内容と自社事業との関連性など、留意すべきポイントがいくつかある。
調査を実施して事実認定を行うことになるが、「企業の調査能力には限界があるので、費用対効果も考慮せざるを得ません」と西垣弁護士。そのうえで、「自社事業との関連性が疑われるレベルであれば、行動に移したほうがよい場合が多い」と説明を加えた。
処理開始にあたっては、
・ 法令、業界ルール、社内規則違反があるか
・ 人権保護の観点から問題のある行動があるか
という二段階の判断基準に基づいて決定する必要があると西垣弁護士は説明。「たとえ法令違反に該当しなくても、人権の観点から不適切な対応が行われている可能性が判明した場合は、是正を行うのが望ましいと考えられます」
通報者との「対話」の方法についても、配慮すべき点は多々ある。
「単に話し合えばいいわけではなく、社内で徹底的に情報収集を行い、先方の主張や要求事項を確認したうえで議論にのぞみます。なお、会議時間は事前にきっちり定めておくことをお勧めします。途中で打ち切ると、悪印象を持たれるおそれがあるためです」
ただし、対話で解決しない場合も少なくない。その場合、どのような対応措置をとるべきだろうか。ケースバイケースだと前置きしたうえで、西垣弁護士は次のように説明した。
「通報事実が確認できなかった場合は、単に決定事項と今後の対話継続を伝えます。確認できた場合は、謝罪、補償、内部規程の見直し、広報など、さまざまな選択肢があるため、効果的な方策をピックアップして実施することになります」
グリーバンスメカニズムの導入方法
最後に、グリーバンスメカニズムの導入方法について解説がなされた。
導入方法には大きく分けて、
・ 業界団体が提供している通報窓口を利用する方法
・ 企業が独自に通報窓口を設置する方法
がある。
業界団体の通報窓口を利用する主なメリットは、①第三者が関与するため透明性が保たれること、②比較的低コストで実施できることが挙げられる。だが、適切な通報窓口を設置している業界団体が少ないのが現状であり、設置されている場合でも、多言語対応が未整備、運営方法が不透明で信頼度が低いなどの問題が指摘されている。
その点、自社で独自の通報窓口を構築すれば、コストが嵩むため工夫が必要だが、自在にカスタマイズできるため、柔軟な制度設計が可能になる。
「業界団体の窓口は、自社の人権デューデリジェンスから抽出されたリスクをカバーしていない場合も多いため、独自窓口のほうが望ましい」と西垣弁護士。「中立性・透明性を確保するため、外部弁護士や人権専門家を対応委員会のメンバーに加えることが有用です。対応リストや統計資料を開示し、透明性のある制度設計を行う必要もあります」
西垣弁護士は、導入プロセスについて、まず8要件(図表1)の②利用可能性の観点から、すべてのステークホルダーがアクセスできる通報窓口を設置するため、言語や通信手段、広報手段について十分に検討する必要があると説明。さらに、対応組織には外部人材を加えて独立性を確保すること、守秘義務を徹底すること、規程や取扱い案件の実績を公表することなど、導入に関する詳細な留意点を挙げて解説を締めくくった。
最後に設けられた質疑応答では、「グローバル内部通報制度とグリーバンスメカニズムが共存する場合、利用者の混乱を招くのではないか」という質問が出た。西垣弁護士は、「利用者に二つの選択肢を提供することで、逆に手厚い対応を取ることができる」と回答。「リソース不足で、新たにグリーバンスメカニズムを構築するのが難しく、既存の内部通報制度を部分的に活用したいのだが」という質問に対しては、「内部通報制度にグリーバンスメカニズムの機能を持たせる場合、対象とする通報事項や通報対象者が異なるため、規程の修正等が必要となるほか、人権の専門家など外部の第三者から助言を得られる体制の整備といったカスタマイズを加えるとよい」と答え、「低価格で利用しやすい運用ツールを導入するのも一つの手だ」と続けた。たとえば、SaaSpresto株式会社の「WhistleB」は、150以上の国と地域で利用実績のある製品。「グローバルで実績のある運用ツールなので、安心してご活用いただけるはず」と御手洗社長も付け加えた。
グリーバンスメカニズム導入を検討する企業にとって、有益なヒント満載のセミナーであった。
西垣 建剛
弁護士法人GIT法律事務所 代表社員 / パートナー
2000年から2020年まで国際的法律事務所「ベーカー&マッケンジー法律事務所」に所属し、同事務所のパートナーを10年以上務める。国際訴訟・紛争解決、国内外の上場企業の不正に関する調査、米国FCPA(the Foreign Corrupt Practices Act)のコンプライアンス、製薬・医療機器メーカーのコンプライアンスを行う。不正調査、米国FCPAに関して、多数のセミナーで講師を務める。その他、グローバル内部通報制度の構築、国際労働事件の解決、米国クラスアクション、GDPRを含む個人情報保護法関連のコンプライアンスなどの法的助言も行う。主な著書に『グローバル内部通報制度の実務』(2022年5月)がある。
御手洗 友昭(司会)
SaaSpresto株式会社 代表取締役社長CEO
SaaSpresto株式会社は、日本電気株式会社(NEC)と、米国投資ファンドのVista Equity Partners Management, LLC(本社:米国・テキサス州)が協業して設立したSaaSを取り扱う事業会社。同社が提供する内部通報管理ツール「WhistleB」は、グローバルで1万3000社以上に導入されている。