「法務はビジネスをわかっていない」——
経営層や事業部から、こう言われたことはないでしょうか。直接耳にしたことはなくても、そう見られているかもと思ったことはあるかもしれません。
私自身、企業法務にいた頃、事業部長からこの言葉を言われたことがあります。
自社製品の不具合について、顧客向けの説明文書を作成したときのことです。会社の責任範囲を明確にした文面を整え、自分では丁寧に仕上げたつもりでした。
ところが、事業部長の反応は厳しいものでした。
「これを営業がお客さんに持っていけるわけがない。法務はビジネスがわかっていないよね」
当時は釈然としませんでした。会社を守るために必要なことを書いたのに、なぜそこまで言われるのか、と。
けれどもその後、営業担当者と全国の顧客への説明に同行するうちに、文書が現場で使いにくい理由を身をもって実感しました。A4数枚にわたる堅い表現と過剰なただし書が並ぶ文書は、法務としての正確さはあっても、現場では機能しないものだったのです。
「ビジネスがわかる」とは、場面を想像できること
考えてみれば、文書には説明する相手がいます。限られた時間の中で、顧客に必要なことを伝え、納得してもらわなければなりません。使われる場面を前提にしていない文書は、法的に正しくても、現場では力を持ちません。
「ビジネスがわかる」ことの出発点は、現場で何が起きているのかを具体的に想像できることにあります。
現場を知るほど、現場に寄りすぎる
ただ、ここで気をつけたいのは、現場を知るほど、現場の事情に寄りすぎてしまうことです。
営業の焦りや顧客との関係が見えるほど、法務としても「なんとか通したい」と思います。しかし、事情を理解することと、リスクをそのまま受け入れることは違います。「ビジネスがわかる」ことと「現場と一体化する」ことは同じではありません。
何でも現場の意向どおりに通してしまえば、法務の存在意義は失われるでしょう。経営層から見ても、「何のために法務がいるのか」と思われてしまいます。
だからこそ、ときには「ここから先は進められません」と線を引く必要があります。会社の信用毀損、法令違反、将来の大きな損失に関わる場面では、法務が責任を持って止める役割を担います。
ビジネスがわかったうえで、どう「No」と言うか
ただ、単に「できません」と返せば、やはり「ビジネスがわかっていない」と受け止められてしまいます。ビジネスを進めるための道筋が見えないからです。
「ダメなものはダメ」で終わらせず、どこまでなら進められるのか。進めるために何を変えればよいのか。そこを一緒に考えられることも、「ビジネスがわかる」法務に必要な姿勢です。そのためには、次の三つの視点を持っておくと役立ちます。
法務が持っておきたい三つの視点
会社は何を誰に提供し、どこで利益を出しているのか(事業構造)
事業の仕組みが見えていなければ、リスクの優先順位をつけられません。利益の源泉や案件の重要度が見えて初めて、判断に濃淡をつけ、事業を止めずに進める方法を探せます。
顧客が何を「価値」と感じているのか(顧客視点)
顧客が求めるものは、価格、スピード、品質、安心感など、事業によってさまざまです。法的に正確でも、顧客に不信感を与える言葉は、ビジネスの場面では機能しません。会社を守りつつ、顧客との関係を壊さない表現を選ぶ。ここに法務としての工夫があります。
経営が今、何を優先しているのか(経営視点)
成長なのか、利益率なのか、信用維持なのか。経営の優先順位によって取れるリスクは変わります。法律上の可否だけでなく、「会社が今、何を失ってはいけないのか」まで見据えて伝える。ここまで説明できると、「できません」という言葉も、会社の利益を考えた判断として受け止められます。
「ビジネスがわかっている法務」とは何か
「ビジネスがわかっている法務」とは、現場の事情を理解しながら、現場と一体化しすぎず、会社全体の利益から考えられる人です。
現場の事情を聞き、顧客の受け止め方を想像し、事業の構造を見つめ、経営の優先順位を考える。そのうえで、進められる道を探し、必要なときには止める。そこまで含めて、法務の専門性は組織の中で意味を持つのだと思います。
法務への不満の奥にあるもの
現場や経営層が法務に向ける不満は、「ビジネスがわかっていない」だけではありません。
・ 当事者意識が薄い。
・ 仕事が遅い。
・ コストが高い。
・ 視座が低い。
こう見られていることもあります。
こうした声を単なる批判として受け流すと、法務の仕事は変わりません。「なぜそう見えているのか」「変えられる部分はないのか」を考え続けることで、専門性は組織の中で活きるようになります。
私自身、何度も失敗して学んできました。経営の立場に立って初めて、以前の自分の助言がどう見えていたのかに気づいたこともあります。
本書では、こうした経験をもとに、「ビジネスがわかること」に加えて、専門性を持つ人が組織で価値を発揮するために必要な考え方と行動を整理しています。
本書で書いたこと
本書では、経営層や現場の不満を信頼に変えていくための考え方に加え、次のテーマも扱っています。
・ 転職を決断する際の判断軸:新しい組織に移るとき、何を基準にするのか
・ 専門性のシフト:法律事務所から企業に入った後、専門性の使い方をどう変えるのか
・ リーダーへのステップ:専門職からリーダーへ進む過程で、どのような壁に向き合うのか
・ 経営層として専門職を活かすために必要なこと
若手の法務人材はもちろん、企業内で専門性を活かしたいすべての方に向けて書きました。
本書が、組織の中で専門性をどう活かすかを考える手がかりになればうれしく思います。
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法務の現場でつかんだ 宮崎 裕子 著 |
宮崎 裕子
弁護士法人GIT法律事務所 弁護士・ニューヨーク州弁護士
92年慶應義塾大学法学部を卒業。96年最高裁判所司法研修所修了、弁護士登録、尚和法律事務所(現 ジョーンズ・デイ法律事務所)入所。01年あさひ・狛法律事務所(現 西村あさひ法律事務所)入所。04年Davis Wright Tremaine LLP入所。05年ニューヨーク州弁護士登録。06年あさひ・狛法律事務所へ復帰。07年デル株式会社、13年日本アルコン株式会社を経て、17年スリーエム ジャパン株式会社に入社し、21年から代表取締役社長を務めた。退任後、現在、複数の会社にて社外役員を務める。
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